故郷〜ビルカ〜







一度だけ。
吐く息も凍る北海へ旅したことがある。









白い世界だ、白くて何もない。
かき曇った空の下には一面の流氷、刃物のような薄い、鋭角的な陰影をつけてそびえる氷山。太陽は熱も滋養も無いボンヤリとした光を蒼ざめた大地に注ぐだけ。氷河期を生き延びた生命は次の標的にされぬように固唾を飲んで気配をひそめ、波音さえも肌を刺す極寒の大気の底で押しつぶされて、切れ切れの海鳴りが宙にさまよう。
「良い時期に来なすったね、青海のお客さん」
「良い?」
「今は怖い神様がお寝みになっていらっしゃる時なのさあ。神様は人間がお嫌いだから、起きてらっしゃる時には人間を見ないですむように地上を闇で覆ってしまわれる。神様はワシらと違って体も大きく、ご丈夫だから、何日も何日も眠らない。そうなると長い長い夜の世界だ。今と逆さね。寒いし、作物は育たないし、腹をすかせた狼どもがうろついてめったに外へも出られやしねえ。だから、この国の者は、明るいうちに働いておいて夜は家に閉じこもって、早く神様がお寝みになってくださるように祈って暮らすのさ。神様の住む月の光が部屋の中に差さないように、鎧戸をぴったり閉めきってね……」
「ぬしらは、白夜のことを知らぬのか?」
「ビャクヤ?」
「知らぬならよい。勘定を。生憎、青海の通貨しか持ち合わせぬが」
「ええ? 参ったなあ、高額通貨のことはあまり分からないんだ。硬貨かい?」
「紙幣だ。青海では硬貨よりも価値がある」
「塩漬け肉の樽が490万9千999、干し肉が一袋490万9千996エクストルだから、合わせると、代金は……だめだ、とてもそんなに多くの数を数えられないよ。この、花の絵の紙幣がきれいでいいね。これと交換ということでどうだね?」
隣では、カリブーの臓物を求めに来た主婦がエクストル硬貨を秤にのせて目方で代金を支払っている。この国には換算法も、それどころか計算の概念そのものがないのかもしれない。ミホークは店主の指す100ベリー札ではなく、蝶の印刷された500ベリー札を二枚抜き出した。
「五百万エクストルと同じ価値がある札だ。釣はいらぬ」
「あんたが北西の海にたどり着くまで、気まぐれな神様がどうかお目覚めになられませんように! 真っ暗になって景色が見えなくなったら、遭難するしかないんだからね。お供えとお祈りを欠かしたらいけないよ。神様を怒らせないためには、それしかないんだ」
「お釣りだよ、お客さん」
「こらこら! お前はまた、そんなでたらめを」
「でたらめじゃないよ、義父さん。5エクストル。あんたの金だよ青海人、受け取りなよ」
「嘘をつくんじゃないと、いつも言っているだろう。お前のマントラではまだそんなことまでは分からないと、僧長さまも言っていたぞ。へたに神様を怒らせると、昼が終わってしまうじゃないか。もう礼拝の時間だろう。神学校へお行き」
十年前にあの子を拾ったんですよ、と、肉屋の主人は干し肉を包みながら言い訳のように呟いた。隣町で急病人が出て、ドクターを送り届けた帰り道だった。雪原の真ん中に揺りかごが落ちていたのさあ。きっと橇から投げ出されて、橇は気づかずに先へ行っちまったんだろうね。ワシが通りかかるのがあと少し遅れたら、狼の餌になっちまってただろう。
「なのにあの子ときたら、遠吠えに怯えるでもなく、まばたきもせずにじいっと空を見上げてたんだからね。その時に、月を見上げすぎたのさあ。大きな満月だった。きっと、フェアリーヴァースの世界を覗いた罪で神様に呪われちまったんだよ。おかげであの通り、幾つになっても昼間に夢を見る癖がなおらないのさあ……」
「だが、当たるのだろう?」
その言葉に、肉屋はゾッと冷水を浴びせられた表情になった。






桟橋の袂で手持ち無沙汰に佇んでいた少年は、ミホークを見るとぞんざいに拳を突き出した。
「5エクストル。俺の貯金箱からもってきたから小銭だけど。ビルカのラマ肉店は悪どい商売してるだなんて他の島で言いふらさないでくれよ。ちゃんと渡したんだから」
「秤を使わずに、どうして分かった?」
「数えたんだ」
「何百万もの数を、咄嗟にか? マントラとやらは便利なものよな」
少年は苛立たしげにかぶりを振った。
「違う。あんたが買ったのは490万9千999エクストルの樽と、490万9千996エクストルの干し肉なんだろ。だったら、肉が500万ベリーの価値がある紙幣と同じ価値になるには、1グラム硬貨があと1枚。干し肉は、97、98、99、500万で、4枚。たった5枚数えたらいいだけなのさ。マントラなんて関係ない。ちょっと考えれば誰にだって分かることさ。それを、誰も考えようとしないんだ」
「月を見ようとしないように、か」
暦の法則に従って、夕焼けが夏の終わりを染め始めていた。天文学を知らぬ信心深いビルカの民は足早に海岸を去り、二人きりになった海岸に、やがて月が昇った。気温が下がり、ガスの晴れ渡った空に冴え凍る光が燐粉のように幻想的に満ちる。
「夜の方が明るいのに、みんな暗いと思い込んでる。答えはいつでもそこに在って、見れば分かるのに、見ないから知らないんだ。船出するにはいい潮だよ、青海人。丸い月の晩は、波がよく引くからあまり漕がなくても船が進むんだ。何度も空き瓶を流して調べたんだから本当さ。神様の気まぐれで偶然そうなってるんじゃない、ちゃんと、周期と法則があるんだ」
「皆にも教えてやれば良い。この国の暮らしも少し楽になろう」
「聞きやしないよ。ビルカでは神様は絶対なんだ。みんな怖がって、もし怒らせたらどうしようってビクビクしてるから、何も分かろうとしないし、何も言わせてくれやしない」
「それで、その目か」
「無事に国境を越えられたら手紙をくれる? 切手を集めるのが流行ってるんだ。こんな辺境にくる手紙なんてせいぜい隣島からだけど、あんたは赤道を越えて向こう側まで行くんだろ? あんたから手紙が来れば、俺の考えが正しかったことになる。学校に持っていけば、石頭の先輩たちにも一泡吹かせてやれるしね」
「では、己の目でも証拠をしかと見届けねばならぬだろう?」
笑いを含んだ声がして、鋭い風が、少年の上を一閃した。黒刀は正確に結び目を断ち切り、両眼を覆う封印の布が切り払われたあとに、煌々たる正円を沈めた青い瞳がまたたいていた。だが、理知の静謐をたたえた泉の中に沈む月影に、ビルカの月にはない熱のようなものをミホークは感じた。意思の熱だ。野心にまみれて貪欲に燻っている。
「ぬし、名は?」
「エネル」
「覚えておこう、空島の小さき博士よ」






便りは二年後に届いた。
クラウド・エンドの消印を押した手紙には一冊の本が添えられていた。『プリンキピア』。※1






※1 ニュートンの著書。林檎が木から落ちる現象と月が落下する現象が同じ原理に基づいていることを証明し、万有引力の法則を説いた




Text by...アゲハ蝶さま/マイナーズ・レア











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